夏の日差しが部屋の中に溢れている。
 さっきまでつけていたクーラーの冷気が残っているから、外の茹だるような暑さはまだ届かない。
 制服に着替えて姿見の前に立つと、飾りっけのない女子高生がそこに居た。

 無意識に指が唇に触れる。途端に跳ね上がる鼓動。ありありと思い出す、あの感触。
 背筋を駆け上がるような痺れを振り払い、小さなバッグに小銭入れと携帯電話、それからハンドタオルを入れた。

 階下に降り、玄関で靴を履いていると母が顔を出した。

「今から行くの?」
「うん」
「今度から、長期休暇の時は持って帰ってくれば? 金魚」

 冗談交じりにそう言うと、行ってらっしゃいと声が続いた。

 一歩外に出ると熱気が一気に押し寄せてくる。もうすぐ夏休みは終わるのに、日差しはまだまだ真夏のままだ。
 それでも足取りは軽い。まるで自分が陽炎になったかのように、ふわふわと歩きながら学校へと向かった。


 少しひんやりとした昇降口を抜け、慣れた階段を駆け上がる。目当ての教室の前で立ち止まり、心臓に手を当てて鼓動を押え、息を整える。
 いつもの儀式だ。
 扉に手をかけてそっと開くと、窓の向こうの青空が目に飛び込んできた。

「……おはようございます」

 何度も瞬きをして目を慣れさせ、普通教室の二倍はあるその中を見渡した。
 黒板の横、準備室に続く扉は塞がっている。そこには何の気配もなく、ただ水槽のエアーポンプの音だけが響いていた。
 誰も居ないことに、思っている以上にがっかりしていた。待ち合わせをしているわけでもないのに、何を期待したのだろう。

 後ろ手に扉を閉め、金魚の水槽に向かう。
 浮かび上がってきた七匹の金魚たち。ため息をひとつついて、持っていたバッグを横に置く。餌箱に指を入れ、まあるい小さな粒々を一つまみを取って蓋の隙間から落とした。

「さあお食べ」

 口をパクパクと開けて飲み込む様子を見ながら、水槽のガラス面全体にうっすらと緑の膜が掛かっているのに気がついた。

 なんだろう。

 内側に指を入れて擦ると、指先が緑色に染まる。

「藻だな」

 突然低い声が耳元で響いた。
 慌てたわたしの手が水槽の蓋にあたり、がたんと音を立ててずれる。
 ククッと押し殺したような笑い声が頭の後ろから聞こえる。振り返り様、真っ先に目に入ったのは真っ白な白衣。
 そっと視線を上げると、眼鏡の向こうで妖しく笑う瞳に捕まる。

「太陽の光が当たって繁殖したんだろう」

 わたしの動揺にいっさい構うことなく、先生はそう言った。

「そ、掃除、した方が良いですか?」
「まあ、そうだな」

 言いながら、わたしの腕を取った。
 心臓の鼓動はまだ大きい。それがさらに一段と跳ねた。
 微動だに出来ないまま、少しひんやりとした大きな手が腕をすべり、そのままわたしの手に触れ指先までたどり着くのをずっと見つめていた。
 すべらかな親指が、緑色に染まったわたしの指先を撫でる。

「取れないな」

 ぽつりとつぶやいたその時、扉の向こうからガヤガヤとした声が聞こえた。
 先生の手がゆっくりと離れる。振り返ったと同時に、ガラリと大きな音を立てて前方の扉が開いた。

「あ、センセー、居た居た!」

 明るい大きな声が響いた。入ってきたのは三人の女生徒。きっと三年生だ。茶色い髪と短いスカート。今時の女子高校生のあるべき姿。

「何の用だ?」

 白衣をひるがえして先生は彼女たちへ向かった。

「センセー、ヘルプ! 課題の量、減らしてっ」
「そんなこと出来るか」

 呆れたような声と重なる笑い声。
 取り残されたわたしは、ぼんやりと水槽に目を戻した。
 薄い緑の膜に、わたしの指の跡が一筋。
 
 掃除、しようかな。

 そう思い立つと、まずエアーポンプの電源を抜いて蓋を外した。
 掃除用のスポンジを廊下側にある水道で良く洗う。それから大きなバケツ二つに水を張り、カルキ抜きを入れて反対側の日の当たる場所に置いた。
 水槽の中に腕を入れ、スポンジで緑の膜を擦っていく。剥がれた藻が水槽の水を少しずつ緑色に染めていった。

 教室の前方から聞こえてくる楽しげな会話が頭の中を通り過ぎる。
 あの先生に対して、物怖じしないはしゃいだ声。媚びる様な笑い声。それから、時々聞こえてくる低い声。
 ついさっきまで胸の中にあった熱はすっかりと冷めた。生ぬるい水槽の中で、だんだんと深い緑に染まっていく自分の腕をじっと見つめた。

 自分だけが特別だと、どこかで思っていた。
 いや、今でもそう思っている。
 あの冷ややかな瞳の奥にある、わずかな熱を感じることが出来るのは自分だけだと。
 けれど、わたしは何も知らない。ここ以外のあの人を何も知らない。
 わたしが知っているのは、ここで過ごす数時間のあの人だけ。
 からかうような低い声。時々触れてくる冷たい指先。力強い腕、それから乾いた唇。
 たったそれだけ。
 そして、たったそれだけで満足だった。
 たったそれだけで、わたしの全身が粟立つ。何もかも忘れて、身を委ねてしまう。
 幼いわたしの情熱。

 どうしてわたしだけのものじゃないんだろう。
 あんな風に、他の人たちと話さないで欲しい。ずっと怖くて近寄りがたい先生で居て欲しい。その冷たい目でまわりを凍らせて、誰もそばに寄せ付けないで。
 わたしと先生以外、みんな消えてしまえばいい。

 今まで感じたことのない黒い感情。誰に言われるまでもない、これは嫉妬だ。
 ヤキモチなんて可愛い言葉では表せない、明らかな嫉妬。
 子どもじみた、ただの嫉妬。
 でもそれは、まるで水槽を覆った藻のように、わたしの恋心に膜を張る。

 逃げ惑う金魚たちに触れないように気をつけながら、ガラス四面をすべて磨いた。水槽の水はすっかり藻の色に染まり、中にいる金魚たちの姿も見えない。
 大き目のビーカーで染まった水をすくって捨て、水位が半分になったところで、新しい水を入れると緑色が薄まる。それを何度か繰り返して、ようやく透明な水槽に戻った。
 ついでにエアーポンプのフィルターも掃除して、電源を入れなおす。透明な泡がポコポコと浮かび上がり、金魚たちも気持ち良さそうに見えた。

 うっすらと緑に染まった腕を石鹸で丁寧に洗う。水道の水は冷たくて、生ぬるい感触が拭われていく。

 わたしの醜い嫉妬も流れてしまえばいいのに。

 びしょ濡れになった腕を降って水滴を払う。持ってきたバッグに手を伸ばそうとした時、背後からかけられた真っ白なタオルが濡れた腕を覆った。

「ご苦労様」

 耳元で低くささやかれる声。
 後ろから抱え込むように、大きな手がタオル越しに私の腕を伝う。
 全身を突き抜ける衝撃。背中に感じる先生の体温。タオル越しに伝わるほんのりとした温かさ。
 遠ざかっていたはずの熱が、またゆっくりと蘇って来る。
 頭をゆっくりと背後に預けると、耳元でかすかな笑い声が聞こえた。ぎゅっと抱え込まれたまま、首すじに乾いた唇の感触。
 そこから広がる熱が、わたしの心を覆っていた嫉妬心をあっという間に燃やし尽くしてしまう。
 残ったのは、脆く儚く、どこまでも透明なわたしの恋。

「お前は本当にわかりやすい」

 笑いを含んだ低い声が耳元でまたささやく。
 何も考えられないまま、ただ目を閉じてひたすらその熱を追った。 








おしまい





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困った時の鬼畜教師ww
未だ名前の無い二人ですが、その所為なのか結構書きやすかったり…。
まあ色々突っ込みどころもあるんですが……雰囲気で読んでください(^^;

本当は一ヶ月前にだいたい書けていたんですが、
体調不良で止まってました(^^;
なんとかup出来て良かったです。

読んで下さってどうもありがとうございました。



2012年7月4日 小鳥 拝