Side ルイ


 薄っすらと外が明るいのがわかる。でも、まぶたがひっついたように重くて開かない。なんとか力を入れて引き剥がすように開くと、部屋の中に明るい光が差し込んでいるのが見えた。いつの間に寝てしまったのか、もうすっかり夜は明けていた。

 泣きはらしたせいで目の周りがヒリヒリする。握り締めていたはずの携帯は、いつのまにかベッドの下に転がっていた。手を伸ばして拾い上げ、昨日のままになっている液晶画面を見る。

 最近の携帯って、なんでこんなに画質が綺麗なんだろう。
 薄暗いはずの店内の写真。
 戸惑った表情を浮かべている男にキスをしている女の目は確実にカメラ目線で、その嫌味な表情がはっきりとわかる。

 そんな写真が添付されたメールには、
『あなたの彼、またキスされてたわよ。彼女酔ったらキス魔になるから許してあげてね』
 そう書かれていた。

 このメールをよこしたのは本当に私の友達なんだろうか?普段はほとんど話さないくせに、こんな時ばかり連絡してくる名ばかりの同級生。


 携帯のクリアボタンを何度か押して待ち受け画面に戻ると、不在着信の表示が見えた。着信音は昨日の夜から切ってあったけれど、確認しなくても誰だかわかっているので携帯をまた床下に投げた。


 こんなメールもこれで3回目。
 キス魔の彼女とのキスシーンも3回目。
 だからと言って彼が浮気をしたというわけではない。それはわかっている。そんな時に限って、まるで消毒をするかのようにいきなりキスをしに来る彼の事を知っているから。

 ただ、拒めないだけ。
 強く誘われれば飲み会にも参加する。困った顔で相談事をされれば真剣に聞いてあげる。酔った振りしてキスされても、『そんなことしちゃダメだよ』と困った顔で諭す。ただそれだけ。ただの馬鹿なお人好しだ。


 こんなメールを受け取っている事を彼には言わなかった。何のために彼女らがこう言うことをしてくるのかわかっているから。わかっていないのはきっと彼だけだ。だから、癪だけどずっと知らないフリをしてきた。でも本当は最初からずっと嫌だった。他の女とキスした唇でキスをされるのも嫌だった。

 ずっと装っていた私の平常心は、昨日の夜ぷっつりと切れた。
 突然に。
 そして携帯を握り締めてわあわあと声を上げて泣いた。




 夕方近くまでベッドの上でうずくまっていた。今日は土曜日。本当なら週末はいつも泊りがけで過ごして、月曜日に一緒に大学に行く。それが休日のだいたいのパターンだった。本当は今日も待ち合わせて出掛ける予定だった。ずっと見たかった映画が今日から封切りだったから。けれど、私はずっとベッドの上だ。ぼんやりとしたまま何も考えず、窓の外をずっと見ていた。


 ピンポーン

 インターホンの音が私を少しだけ現実に戻す。何度も鳴らされるその音をベッドに寝転んだままぼんやりと聞いていると、玄関のドアをドンドンと叩かれた。ワンルームの私の部屋はベッドから玄関までの距離がほんのわずかだ。ドンドンと音がするたびに、かすかに振動する扉をじっと見つめた。

「おい、ルイ。居るのか?ルイ?」

 合い鍵をまだ持っていない彼の取る手段はきっとこれしかないのだろう。何度も叩かれる扉の悲鳴が聞こえたような気がして、私はベッドからゆっくりと起き上がると玄関まで行って、ドアチェーンをかけたままその扉をそっと開けた。

 10センチほどの隙間から、少しだけ驚いた顔をしたあと、ホッと頬を緩ませた彼が見えた。

「ルイ、どうしたんだよ?電話も出ないで。具合でも悪いのか?」

 今の自分の顔は相当酷いはずだ。それを見て彼はそんな風に言うのだろうか。

「…悪いけど、しばらく来ないでくれる?」

 自分でもびっくりするくらい冷たい声がした。
 言われた彼はもっとびっくりしている。

「ど、どうしたんだよ?とりあえずここを開けてくれよ」

 10センチの隙間から手を伸ばしてきた彼の手をピシャリと払う。

「他の女にさわった手で触らないで、気持ち悪いから」
「な、何言ってるんだよ?」

 ますます驚く彼をそのままに、私は一旦部屋に中に戻るとベッドの下に投げてあった携帯を拾った。ピッピッピッとボタンを押しながら玄関に戻ると、ドアチェーンの隙間から彼に向かって画面を見せた。昨夜のキスシーンの写真だ。

「な…」

 見た瞬間、彼はそのまま固まってしまった。それを気にすることなく、いったん自分の方に戻してまたボタンを押す。そしてまた彼に向けて、彼がそれを見たのを確認してまた押す。私は3枚のキスシーンの写真をすべて彼に見せた。

「もう、こういうの限界なの。しばらく話したくないから」

 固まってる彼にそう言って、私はドアを閉めてすばやく鍵をかけた。

「…ちょっ…待ってよ、誤解なんだよっ」

 ドアをドンドン叩く音を聞きながら、私はまたベッドに上がって頭から布団をかぶった。今度こそ完璧に電源まで切られた携帯電話はまたベッドの下に転がっている。

「ルイっ、ルイ。開けてくれよっ」

 切羽詰ったような彼の声をぼんやりと遠くに聞きながら、玄関の扉には申し訳ないななんて、そんな事を思っていた。


 かなり長い間響いていた声はいつの間にか止んでいた。
 結局私は次の日も一歩も外で出ないまま、月曜日の朝を迎えていた。

 つき合い始めてから初めて彼の隣とは別の机に座った。それを珍しげに遠巻きに見ているギャラリーの中には、もちろんあのキス魔の彼女とメールの送信者がいるのはわかっている。

 良かったわね、思い通りになって。

 心の中でそう思った。
 心配そうな友人たちに囲まれながら、時々彼の視線を感じたけれどわざと無視をした。今の私にはそれを冷静に受け止める余裕はまだなかった。

 辛いとか、悲しいとか。そういう感情もなかった。
 ただ、馬鹿だと思った。
 本当に馬鹿だ。
 彼も、私も。





Side コウ


 お人好し。

 俺のことを一言で表すならこれだと、友人たちは言う。
 根っからの長男気質なのか、強く頼まれれば断われないのも事実だ。誰かのために何かをすることは嫌いではなかった。むしろ喜ばれると嬉しかった。頼られて必要とされることがある種の快感だった。だけど、そんな自分の性格が誇らしかったのは一昨日までだ。俺の自分勝手な思い込みは、自分の一番大事な物を傷つけていたのだから。

『他の女にさわった手で触らないで、気持ち悪いから』

 真っ赤な目をしてまっすぐに自分を睨みつける彼女の顔を思い出す。今までに見たことがないくらい冷たい顔。ドアを何度叩いても彼女は出て来なかった。何度電話しても、繋がりさえしなかった。

 切り捨てられたのだ、と思った。


 俺にしてみればあれはただの事故だ。彼氏と上手く行っていないとか、サークルの事で女の子の相談に乗ることはよくあった。酔うと誰にでもキスをすると言うその子が、自分の彼氏の名前を呼びながら俺にキスをしてきたのもただの事故だと思っていた。だからと言って別に役得だとか思ったわけでもない。俺だってルイ以外のヤツにキスをされるなんて嫌だ。だから気をつけていたはずなのに。先週の金曜日の夜、不意打ちのように3度目を奪われた。だからすぐにでもルイに会いたかったのに…。

 何故あの時の写真が彼女のところにあったのかもわからない。けれど、例えそれがなかったとしても、自分の自己満足のせいで彼女を裏切っていたのも事実だった。

 ルイとつき合い出してから初めて一緒に居ない週末。
 そして、月曜日。
 やっぱり隣に彼女は居ない。

 広い教室を見回してルイの姿を捜した。仲の良い友人たちと一緒に居たルイは、一度も俺を見なかった。



「だから気をつけろって言っただろ?」

 昼になって友人らと学食に行った。
 朝から明らかに落ち込んでいる俺からある程度の話を聞いた友人らが、呆れたようにそう言った。

「そりゃそんなメールが3回も送られてきたら、さすがのルイちゃんもキレるわな」
「…うるさい…」

 眉間に皺を寄せて思い切り睨んだけれど、奴らには効果がなかった。

「ったく、お人好しもそこまで行けばただの馬鹿だぞ?」
「……」

 いちいち的を射た言葉にもう言い返す気力もない。

「…なんであんなことするんだろうな…」

 気にかかっていたのはルイに届いたメールの事だった。送信者は間違いなくあそこに居た誰かで…。ぼんやりとそう呟いた俺に友人らは心底呆れた顔をした。

「お前はホントに馬鹿だなぁ…」

 友人の一人がぽそっと言ったその言葉の意味を、俺はその時正確に理解していなかった。



「たまにはなんか飲みに行こうぜ」

 昼食を終えて友人がそう言ったので、この時間にほとんど行った事のない構内にあるカフェに行った。オープンテラスが女子に人気で、今も大勢の女子がいる。

 コーヒーを買って空いている席を探しながら歩いていると、見覚えのある顔がオープンテラスに見えた。例のあの女の子だ。いつも一緒にいる同じサークルの女の子と3人で楽しそうに話している。

 まったく、俺はあんたの酒癖の悪さのお陰でこんな目に合ってるのに…。

 心の中で毒づいて、何気無く彼女らの後ろを通った時、聞こえてきた会話に思わず足が止まった。


「なかなかしぶとかったけど、さすがに3回目ともなると効くわねぇ」
「まったく、あんたも悪魔みたいな女だよね。嘘の相談事持ちかけて、酔ってもいないくせにキス魔のフリするなんて」
「それを写真にしっかり撮らせてカノジョに送るあたりが、ホント悪女だよ」
「だって、そうでもしないと別れそうにないじゃん?」
「可哀想ーっ。今頃落ち込んでるよー?コウくん」
「ふふーん、じゃあ今夜辺り誘ってみようかなぁ」
「慰めて、あ・げ・る。って?」

 後ろに俺がいることにも気づかず、キャハハと楽しそうに笑う彼女らの声に全身の血が一気に下がった。

「…あーあ、女って怖えーな…」

 背後でそう呟いた友人の言葉を聞いた瞬間、自分の中で何かがキレた。


 気がつくと俺は彼女らのテーブルを脚で思いっきり蹴り飛ばしていた。

 ガシャンッと大きな音を立てて丸テーブルがひっくり返った。グラスが割れる音と甲高い悲鳴が同時に聞こえたけれど、一切構うことなく、青ざめて驚いた顔で自分を見ている三人の椅子ごと同じ様に蹴り飛ばした。

「きゃあっっ」

 悲鳴を上げながら床に倒れこんだ彼女らについと近づくと、ひっとまた短い悲鳴が上がった。

「…随分、面白い事してくれるじゃん…」

 普段の自分からは考えられないくらい低い声だ。
 へらへら笑ってる俺しか知らない彼女らは、怯えた顔をして地面に座りこんだままだ。

「どうやって、慰めてくれんの?」

 蔑むように見下ろすと、カタカタと小さく震えながら、かすれた声でごめんなさいと呟いた。今にも泣き出しそうな、被害者みたいなその表情がさらに自分の中の怒りを煽っていく。

「…お前らも最低だけど、もっと最低なのは俺か…」

 本当の被害者はルイだ。
 自分さえちゃんとしていればこんなことにはならなかった。つけいる隙を与えたのは間違いなく自分だ。

『お前はホントに馬鹿だなぁ…』

 さっきの言葉の意味が、今ようやくわかった。ルイだって、多分最初からわかっていたんだ。…わかっていなかったのは俺だけだ。騙されているのにも気づかず、頼られてるってことに一人で酔って、ずっとルイを苦しめ続けていたんだ。

 ルイ、ごめん。



「きみっ、何をしてるんだっ」

 駆けつけてきた職員に掴まれた腕を振り払う。自分自身が忌々しくて、情けなくって。行き場のない感情を持て余してさらに倒れていた椅子を蹴り上げた。椅子は大きな音を立ててまだ座りこんでいる彼女らのそばを転がった。

「きゃあっ」

 大きな悲鳴がまた上がった時、今まで傍観していた友人らが俺の肩を抱いて抑えた。

「おい、コウ。その辺にしとけよ」
「ったく、お前、4年にいっぺんくらいの割合でキレるよな?」
「一人ワールドカップか?お前は」

 茶化すような言葉に次第と冷静になって行く。

「とにかく、来なさい」

 職員に促されて友人らと歩きだした。例の三人組はまだ地面に座りこんでいたけれど、もう見る気もしなかった。ただ友人の一人が振り返って、

「コイツの本性は女にも容赦しない酷いヤツだから、もうちょっかい出さない方が良いよ?」

と、本当なのか冗談なのかわからない声で言った。

 野次馬が大勢集まっているそこから、職員と友人らに囲まれるように抜け出した時、

「…コウっ」

耳に馴染んだ声が聞こえた。
 視界の端に、こっちに向かって走ってくるルイの姿を見つけた。





Side ルイ


「気持ちもわからないでもないけどさぁ…」

と、友人の一人がぽつりと言った。
 構内にある広いカフェの一番奥に座って、遅めのランチを食べながら私の話を聞いた後のこと。

「それなら、尚更相手の思うつぼじゃない」
「コウくんだって悪気があったわけじゃないでしょ?」

 友人二人から口々に言われたけれど、私はまだ素直に聞くことが出来ない。

「悪気があったらもっとサイテーだよ」

 眉間に皺を寄せて吐き捨てるように言うと、はぁとため息をつかれてしまった。

「つか、そのオンナもすごいよね」
「波風立てようって魂胆が見え見えだし」
「そんなオンナの所為でダメになっちゃうなんて癪じゃない?」
「…だから、ずっと我慢してたよ…」
「ルイ…」
「さすがにさ、3回目は辛いよ…情けない…」

 コウの優しいところが好きだった。それは本当。でもその優しさが時には凶器にもなるってことを、コウはきっとわかっていない。

「まあ、確かに。お人好しもここまで来るとただのマヌケだわね」

 ニヤリと笑いながらそう言われると何だかムッとしてしまった。それが顔に出ていたのか、指をさされてさらに笑われた。

「ほら、コウくんの悪口言われたら怒るくせに」

 ぐっと押し黙ると、眉間をツンとつつかれた。

「素直なルイちゃんはどこに行ったの?」

 イタズラっぽく笑うその向こうに、私のことを心配してくれている気持ちが見え隠れしているのがわかる。でも、行き場のない私の感情。

「ルイちゃんは素直だから、しばらく一人でいるのですっ」

 そう言ってぷいと横を向いたら、あららってまた呆れたように笑われた。


 と、その時。
 ガシャンっと大きな音が少し離れた場所から聞こえた。同時に聞こえてくるガラスが割れるような音と女の子の悲鳴に、友人たちと顔を見合わせて思わず立ち上がった。


 オープンテラスの一角。徐々に集まってくる野次馬の隙間から、見たこともないくらい怖い顔で立ち尽くしている彼の顔が見えた。

「あれ、コウくんじゃない?」

 同じ様に彼を見つけた友人たちに手を引かれて、もう少しだけ近くまで寄った時、彼が座っている女の子を椅子ごと蹴り上げた。

「きゃあっ」

 甲高い悲鳴を上げて女の子が椅子から転げ落ちた。コウは続けて隣に座っていた二人の女の子の椅子も同じ様に蹴り上げた。

 悲鳴と大きな音が響き渡り、そこは一瞬静寂に包まれた。
 床に座りこんだ彼女らは遠目からでもわかるくらい怯えていて、コウが近寄るとさらにビクっと震えた。コウの唇が何かを言っているけれど、ここからでは聞こえない。

 慌てて駆け寄って来た大学の職員がコウの腕を掴んだけれど、彼はその腕を乱暴に振り払って、倒れていた椅子をさらに蹴り上げた。また大きな音と悲鳴が上がって、そばに居た彼の親友たちが肩を抱く様にコウの身体を押さえるのが見えた。

「何があったのかしら?コウくんが女の子にあんなことするなんて」

 友人の言葉を頭の隅で聞きながら、職員と親友らに囲まれて歩きだす彼を目で追う。

 何があったの?コウ…。

「ね、ルイ。あの子たち…」

 友達の一人が私の腕を引っ張った。視線を戻すと、コウに凄まれていた女の子たちが他の人の手を借りて立ち上がったところだった。

「あれ、写真のあの子じゃないの?」

 まだ青ざめて泣いている彼女らの一人は、確かにあのキス写真の彼女だった。
 私はとっさにコウの姿を捜した。大勢の学生たちの間から出て行こうとする彼の姿が見えて。その瞬間、私は走りだしていた。

「どいてっ。どいて下さいっ」

 野次馬の輪をかき分けて、その背中に向けて叫んだ。

「…コウっ」


 振り返った彼は私を見とめて。
 そして、眉間をきゅっと寄せて小さく笑ったように見えた。

 もしかしなくても私の所為だろうか。憎らしいまでにフェミニストの彼があんなことをするなんて。

「ルイ、追いかけよ」

 思わず立ち止まった私の腕を追ってきた友人が掴んだ。促されるままに外へ出ると、彼らが学生課の事務所に入って行くのが見えた。


 建物の前まで行ったけれどさすがに中にまでは入れない。入り口の前で戸惑っていると、中から彼の親友たちが出て来た。

「あ、ルイちゃん」
「コウは!?」
「大丈夫、大丈夫。アイツ日頃の行いが良いから大したことにはならないよ、多分。俺たちも一応弁明しといたし。まぁグラス代は弁償だろうケドねぇ」

 呑気な彼の親友の声に、ガクっと力が抜けた。

「…なんで?」
「え?」
「なんであんなこと…」

 私がそう言うと彼の親友たちが、あぁと声を上げた。

「彼女らがさ、自分たちの計画をおもしろ可笑しく話してたのさ。後ろにコウが居たのに気づかないで」
「そしたらさすがのコウもぶちキレてさ。結構見モノだったよな?」
「ああ。アイツ、キレるとおっかないからな。普段抑圧されてる分、反動が大きいんだよな」

 コウとは長い付き合いの彼らは顔を見合わせてケタケタと笑った。

 そっか…やっぱりコウは何にも知らなかったんだなぁ…


「コウが馬鹿なのが一番悪いんだけどさ。反省してるし、許してやって?」
「…」

 その言葉にどう返事をして良いのかわからなくて黙っていると、今度は私の友人が口を開いた。

「ルイ、私たちもう行くから、ルイはここで待っててあげなよ」
「え…でも…」
「そうしてよ、俺らももう行くし。きっとこっぴどく叱られてるから慰めてやって」

 よろしくねー、なんて。手をヒラヒラ振って彼らは私を残してさっさと行ってしまった。


 一人ポツンと残されてどうしようかとしばらくの間途方に暮れていた時、建物の中からコウが出て来た。私を見て足を止める。彼の顔からはいつもの笑顔が消えていた。

「…コウ」

 一歩踏み出すと同時に彼の腕が伸びて来て、私の腰を掴んでぐっと引き寄せ抱きしめた。

「ごめん、ルイ」

 震えた声が耳元で響く。

「俺の所為で、ルイを傷つけてごめん。頼られることが嬉しくて、一人で舞い上がって、勘違いして…いっぱいルイを傷つけた…」
「…コウ」
「もう、お人好しの俺はやめる。頼まれたって、もうあんなことしない。だから…」

 触れ合っていた身体が離れる。
 そっと私の顔を窺う様に覗きこんでくるコウは今にも泣きそうだ。

「…キス、してよ…」
「……やだ」

 コウの唇が小刻みに震えた。キレイな目が少し潤んでいる。
 ショックを受けた様に固まったコウをそのままに、私は自分の鞄を探って化粧ポーチの中からリップクリームを取り出した。お化粧用の色つきのじゃなくて、薬用リップ。それをボケっとつっ立っているコウの唇に有無を言わせず塗りたくった。

「っ?」

 塗り終わった薬用リップはまだ沢山残っていたけど、そのままふたをしてそばにあったゴミ箱に投げ捨てた。

「な、何?」

 びっくりしているコウの肩に手をかけて、少しだけ背伸びをして。

「…消毒」

 私はそう言ってから、メンソールの香るその唇に掠めるようなキスをした。
 
 唇が離れて、コウはまた固まっていた。

 そんな彼を見て、馬鹿だなぁと思った。
 そして、やっぱりこの人が好きだと思った。

「消毒は1回だけよ。だからもう、他の誰ともキスしないで」

 わざと冷たく言い放った言葉に彼の表情が少しずつ緩んでいくのを見ながら、リップもったいなかったなぁーなんて、ぼんやりと思った。






おしまい



暴力はいけません。
モノは大切にしましょうね。

と言うことで、
私の薬用リップをこっそり塗りたくっていた娘を見ながら思いついたお話です(笑)
もっと短い話にするつもりだったんだけど、やっぱりちょっと長かった…。
短くまとめるのって、ものすごく難しいですね。

悪役を書くのが苦手な私ですが、今回のキス女はフォローしようがないくらい悪役です。
さらに勧善懲悪を目指して、思いっきりコウくんにやらかしてもらいました(^^;)

主人公二人も最初は名無しさんだったんですけど、書き辛かったので適当につけました。
はい、ものごっつう適当です。なので苗字も漢字もありません。お友達も名無しさんです。
ホントはコウの友達に、「Dear…」の兵庫たちを持ってこようかとも思ったんですが、やっぱり
面倒なのでやめました。

今回のタイトルバナーと背景の素材は自分で作りました。
えへへ、メンタムさん好きなんです(萌えっ)

いつものとはちょっと毛色の変わったお話ですが、楽しんで頂けたら嬉しいです。


2006年8月2日  小鳥 拝